二・二六事件はなぜ起きたのか?青年将校の動機と処刑までの全真相

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青年将校たちが思い描いていたシナリオは、「天皇の側近にいる悪臣を排除すれば、大元帥たる昭和天皇が自分たちの至誠を理解し、昭和維新を宣言してくれる」という独善的な幻想でした。しかし、現実は彼らの思惑とは正反対の展開をたどります。

事件の一報を受けた昭和天皇の怒りは凄まじいものでした。『昭和天皇独白録』をはじめとする侍従らの記録によると、天皇は元老や重臣を無残に殺害した青年将校たちに対し、即座に次のように激昂したと伝えられています。

「朕が股肱の老臣を殺害するが如きは、朕の首を真綿で締むるに等しい行為である」「我が愛する軍隊を無断で動かし、このような暴挙に出るなど言語道断である。陸軍首脳が鎮圧を躊躇するならば、朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かう」

国家元首かつ軍の統帥権者である天皇自身から「叛乱軍」「暴徒」と断じられた瞬間、将校たちが掲げた「尊皇」の大義名分は完全に崩壊しました。彼らは忠義の士ではなく、国家に対する反逆者へと転落したのです。

鎮圧後、首謀者たちを待ち受けていたのは過酷な処刑と結末でした。軍部は事件の背景や動機が世論に波及することを極度に恐れ、1936年3月、緊急勅令により「東京陸軍軍法会議」を設置。この法廷は異例ずくめの特設法廷でした。

  • 一審制(上訴・控訴不可)
  • 非公開裁判(法廷内の証言は一切外に漏らさない)
  • 弁護人なし(被告人自らの弁護士選任を認めず)

法治国家の原則を完全に度外視した超法規的法廷において、わずか数カ月の審理で判決が下されました。7月5日、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら主犯格の青年将校17名に死刑判決が言い渡され、同年7月12日、代々木の陸軍衛戍刑務所(現在の渋谷・NHK放送センター付近)において銃殺刑が執行されました。

山下 哲也

山下 哲也

自動車・モビリティライター

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。