幻の1940年東京五輪はなぜ消えた?返上の真相と嘉納治五郎の執念
この「幻の祭典」を実現寸前まで手繰り寄せた最大の功労者が、講道館柔道の創始者であり、日本人初の国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めた嘉納治五郎です。当時のオリンピックは「欧米中心の白人特権的な文化行事」という側面が色濃く、アジアでの開催には根強い偏見と物理的距離の壁が立ちはだかっていました。
嘉納は1936年のベルリンIOC総会において、持ち前の流暢な英語と柔道の教育哲学を武器に各国委員を説得。「東洋の地にオリンピックを招致して初めて、この大会は真の『世界平和の祭典』になる」と熱弁を振るい、大本命と目されていたヘルシンキを36対27の投票結果で破るという歴史的番狂わせを成し遂げました。
しかし、招致成功の翌年に日中戦争が勃発。欧米各国から東京開催への疑念と返上圧力が強まる中、嘉納は1938年3月のカイロIOC総会に満身創痍の体で乗り込みます。「戦争とスポーツは別物である。日本国民は世界を迎える準備を怠っていない」と孤軍奮闘し、全会一致で開催継続の承認を勝ち取りました。だが、運命はあまりにも残酷でした。総会を終えて帰国する途上、太平洋を航行中の客船「氷川丸」の船内で肺炎を発症。1938年5月4日、日本本土を目前にしながら77歳で急逝します。精神的支柱であり、軍部に対抗し得る唯一の国際的顔役を失った招致推進派は、嘉納の死からわずか2カ月後に瓦解へと向かうことになりました。