上野寛永寺の真実!徳川将軍が眠る聖地と上野戦争の謎を徹底解剖

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江戸の平和を象徴していた東叡山が、なぜ血みどろの激戦場へと変貌を遂げたのか。その契機となったのが、慶応4年(1868年)の大政奉還と鳥羽・伏見の戦いに端を発する幕府の瓦解でした。第15代将軍・徳川慶喜は朝廷への恭順を示すため、江戸城を明け渡して寛永寺の子院である大慈院へと移り、謹慎生活に入りました。このとき慶喜が息を潜めて過ごした部屋が、現在も寛永寺本坊に残る「徳川慶喜蟄居の葵の間」です。

徳川宗家を擁護し徹底抗戦を叫ぶ旧幕臣たちは「彰義隊」を結成し、慶喜の身辺警護を名目に上野の山へと集結しました。慶喜が水戸へ退去した後も彰義隊は上野に居座り続け、不満を募らせる幕臣や脱走兵を吸収して約2,000〜3,000人規模にまで膨れ上がります。治安維持の名目で町中に睨みを利かせる彰義隊と、江戸を掌握した新政府軍との間で衝突が起きるのは時間の問題でした。

運命の日は慶応4年5月15日。新政府軍の軍監・大村益次郎の指揮のもと、加賀藩邸(現在の東京大学本郷キャンパス付近)などから最新式のアームストロング砲やスナイドル銃による一斉砲撃が開始されました。激しい雨が降りしきる中、黒門口(現在の西郷隆盛像付近)や山王台で繰り広げられた攻防戦は、圧倒的な火力を誇る新政府軍の前にわずか1日で決着がつきます。この上野戦争によって、荘厳を極めた旧根本中堂をはじめとする寛永寺の主要伽藍の大部分が炎上し、灰燼に帰したのです。

戦後、廃墟となった広大な境内地は、一時は軍用地や大学病院の建設計画が持ち上がりました。しかし、オランダの軍医ア・エフ・ボードウィン博士が「豊かな自然を残し、近代的な公園として保存すべきだ」と明治政府に強く働きかけた結果、明治6年(1873年)に日本最初の都市公園である「上野恩賜公園」として生まれ変わる道を選びました。上野公園の成り立ちそのものが、寛永寺の壊滅という激動の歴史と不可分に結びついているのです。

斉藤 蓮

斉藤 蓮

デジタルマーケティングコンサルタント

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。