なぜ我を楽しむが多いのか?我楽多の語源と文学が明かす意外な真相
この「我楽多」という当て字を決定的に世へ定着させた最大の立役者が、明治の文豪・尾崎紅葉です。1885年(明治18年)、東京大学予備門の学生だった尾崎紅葉、山田美妙、石橋思庵らは、日本初の近代文学結社とされる「硯友社(けんゆうしゃ)」を結成しました。その機関誌として創刊された回覧雑誌の名前こそが、かの有名な『我楽多文庫(がらくたぶんこ)』でした。
当時、政治小説や重厚な思想小説が幅を利かせていた言論空間において、紅葉らはあえて「我々の書くものなど、世間から見れば何の役にも立たないガラクタにすぎない」とへりくだってみせました。しかしそこには、「しかし我々自身にとっては、書いていてこれほど楽しく、熱中できるものはない」という痛烈な自負とパトスが込められていました。
自著の草稿や回想録において紅葉が見せたこのスタンスは、江戸の町人文学が持っていた「粋(いき)」や「諧謔(ユーモア)」を近代文学に接続させる画期的な試みでした。『我楽多文庫』はやがて肉筆回覧本から活版印刷へと移行し、広く一般読者の手に渡るベストセラー雑誌へと成長します。この文学運動の商業的成功によって、「がらくた=我楽多」という当て字は知識階級のみならず市井の人々へ急速に浸透していきました。