斎藤龍興はなぜ暗君とされたのか?信長を苦しめた実像と生存説の真相

斎藤龍興はなぜ暗君とされたのか?信長を苦しめた実像と生存説の真相とはどのようなものなのか? 専門的な分析を簡潔に解説します。

稲葉山城を奪われ、岐阜と改名された屈辱を味わった龍興。大名としての領土を失った後の彼の経歴こそ、再評価されるべきハイライトです。龍興は決して野に隠れて安寧を貪ることはありませんでした。

まず向かったのは伊勢長島。長島一向一揆の蜂起に深く関与し、信長の後方を攪乱します。次いで畿内に進出し、阿波の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と合流。1569年(永禄12年)には、京都・六条本圀寺に陣取る足利義昭を急襲する「本圀寺の変」の主力を担いました。この奇襲作戦は織田方の援軍によって阻まれたものの、信長の心胆を寒からしめるには十分な打撃でした。

さらに龍興は、母方の血縁関係を頼って越前の朝倉義景のもとへ身を寄せます。朝倉家中において龍興は単なる居候ではなく、美濃奪還を目指す客将として重用され、反信長包囲網の最重要ピースとして軍事作戦に参画しました。

運命の決着は1573年(天正元年)8月に訪れます。浅井長政の小谷城を救援すべく出陣した朝倉軍でしたが、信長の機動力を前に敗走を開始。越前へと退却する朝倉軍を織田軍が猛追した激戦、「刀根坂(とねざか)の戦い」です。

総崩れとなる朝倉勢の中で、龍興は逃げ惑う友軍を逃がすため、自ら殿(しんがり)の防衛隊を率いて織田軍の精鋭に立ち向かいました。かつての裏切り者である美濃三人衆や信長の直属部隊を相手に孤軍奮闘し、乱戦の中でついに刃に斃れました。享年26。死因は激闘の中での討ち死にでした。

龍興の首級を挙げたのは、織田軍の山崎吉家とも、あるいは旧臣の配下とも伝えられています。信長にとって龍興は、美濃時代から10年以上にわたり自らを脅かし続けた不倶戴天の敵でした。翌年の正月、信長が浅井久政・長政親子、そして朝倉義景の頭蓋骨を漆で固め金泥を施して酒宴に晒した「髑髏の杯」の逸話がありますが、龍興の首もまた、信長にそこまでの執念を燃え上がらせるほどの強敵であった証拠といえます。

松本 悠斗

松本 悠斗

サステナビリティ研究家

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。