桐島聡はなぜ半世紀逃げ切れたのか?偽名生活と最期の全貌
桐島聡が警察当局から追われる身となった発端は、1970年代半ばに日本国内を震撼させた連続企業爆破事件です。当時、明治学院大学の学生だった桐島は、極左過激派グループ東アジア反日武装戦線の部隊の一つである「さそり」に所属していました。
1975年4月18日に発生した韓国産業経済研究所爆破事件(東京都銀座)において、手製爆弾を仕掛けて爆発させたとして、警視庁公安部は翌5月に爆発物取締罰則違反の容疑で公開指名手配に踏み切りました。東アジア反日武装戦線は「三菱重工ビル爆破事件」(死者8名、重軽傷者約380名)をはじめとする無差別爆破テロを繰り返しており、公安警察にとって最重要追跡対象の一人となったのです。
多くの共犯者が逮捕される中、桐島だけは警視庁の包囲網をかいくぐり、忽然と姿を消しました。その後、共犯者の一部が国外へ逃亡したことで刑事訴訟法の規定に基づき公訴時効が停止。事件から数十年が経過しても時効が成立せず、警察庁の重要指名手配被疑者として全国の警察署や交番にその写真が掲出され続けることになりました。