なぜNyではない?米国首都ワシントンD・C誕生と決定の真相

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アメリカ最大の人口と経済規模を誇るニューヨークが、なぜ合衆国の首都の座を維持できなかったのか。その答えを解き明かす鍵は、1790年6月に開かれた歴史的な「妥協のディナー」にあります。

当時、アメリカ合衆国は建国直後の未曾有の危機に瀕していました。独立戦争で巨額の戦時債務を抱えた北部諸州と、すでに債務の返済をほぼ終えていた南部諸州の間で、凄まじい対立が勃発していたのです。初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンは、連邦政府の信用力を確立するため、各州の債務を連邦が一括して引き受ける「債務引き受け法案」の成立を悲願としていました。しかし、これに猛反発したのが、トーマス・ジェファーソン国務長官やジェームズ・マディソン下院議員をはじめとする南部派の指導者たちでした。「なぜ放漫財政の北部の借金を、真面目に返済した南部が肩代わりしなければならないのか」という不満が渦巻いていたのです。

膠着状態を打破するため、ジェファーソンが仲介して設けた密談の席で、歴史を決定づける政治的バーター取引が成立しました。ハミルトン率いる北部は「連邦による戦時債務の全額肩代わり」を承認させる代償として、南部の要求であった「恒久的な首都を南部寄りのポトマック川沿いに建設すること」を受け入れたのです。これが、今日まで語り継がれる1790年の妥協(Compromise of 1790)であり、アメリカ首都決定の真相です。

この政治的取引に加え、初代大統領ジョージ・ワシントンの強い個人的思惑も働いていました。彼自身がバージニア州の大農園主であり、マウントバーノンに広大な私邸を構えていたことから、自らの拠点に近いポトマック川流域の開発に深い関心と期待を寄せていた事実は、国立公文書館の当時の記録や書簡からも明白です。経済の中心地であるニューヨークに政治権力まで集中させることを極度に恐れた建国の父たちの哲学と、南北融和の現実策が一致した結果、ニューヨークは首都の座から退くことになりました。

松本 悠斗

松本 悠斗

サステナビリティ研究家

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。