丙午の迷信の真相|1966年出生率激減の理由と八百屋お七の起源を解剖
丙午にまつわる不吉な言説のルーツを辿ると、古代中国の自然哲学である「陰陽五行説」と、日本の近世大衆文化が複雑に絡み合った歴史が浮かび上がります。
十干の「丙(ひのえ)」は「火の兄」を意味し、五行における火の陽(燃え盛る火)を表します。さらに十二支の「午(うま)」も方位としては南、季節としては盛夏を指し、同じく五行では「火」に配当されます。つまり、十干十二支の丙午は「火と火が重なり、火性が極限まで強まる年」と解釈されました。本来の中国や平安期日本の陰陽道において、これは天候不順や火災への警戒を促す方位・天変地異の占いに過ぎず、人間の気性、ましてや女性の性格を呪うような教義は存在していませんでした。
この天災への警戒が「激しい気性の女性」という奇妙な人物像へと変貌を遂げた決定的な契機が、江戸時代前期の天和2年(1682年)に起きた天和の大火と、それにまつわる「八百屋お七」の悲劇です。
避難先の寺の小姓に恋焦がれた八百屋の娘・お七は、「もう一度火事が起きれば愛する人に会える」と思い詰め、自宅に放火を試みて捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処されました。この衝撃的な事件を、流行作家の井原西鶴が『好色五人女』で取り上げ、劇作家たちが歌舞伎や人形浄瑠璃として次々と舞台化。「お七は寛文6年(1666年)の丙午生まれであり、丙午の生まれだから情熱のあまり大火を引き起こした」という強烈な後付けの設定を付与したのです。劇的なフィクションが大衆の娯楽として定着するにつれ、「丙午生まれの女は男を狂わせ、家を滅ぼす」という歪んだステレオタイプが庶民の間に深く刷り込まれていきました。