近藤勇の最後はなぜ切腹でなく斬首か?流山捕縛と首塚の謎を完全追跡

近藤勇の最後はなぜ切腹でなく斬首か?流山捕縛と首塚の謎を完全追跡とはどんな影響があるのか? 詳しい意味を整理してお届けします。

板橋で斬首された近藤勇の遺骸は、頭部と胴体が別々に扱われるという過酷な運命を辿りました。首級は塩漬けにされた上で東海道を西へと運ばれ、慶応4年閏4月晦日から3日間にわたり、京都・三条河原で晒し首(獄門)に処されました。

しかし、3日目の夜、三条河原から近藤の首級が忽然と姿を消します。誰が首級を持ち去ったのかについては現在も諸説存在します。

現在確認されている主な近藤勇の墓所と首塚の分布

  • 会津若松・天寧寺(福島県会津若松市):土方歳三が会津へ落ち延びた際、会津藩主・松平容保の許可を得て建立したとされる墓碑。土方が持ち込んだ近藤の遺髪や首級が埋葬されたという伝承が残り、隣には土方歳三の慰霊碑も並び立ちます。
  • 板橋駅前・近藤勇墳墓(東京都北区):明治9年(1876年)、生き残った新選組幹部・永倉新八が発起人となり、旧幕府医官・松本良順らの協力を得て処刑場跡付近に建立した供養碑。毎年春には慰霊祭が執り行われています。
  • 三鷹・龍源寺(東京都三鷹市大沢):近藤家の菩提寺。板橋で処刑された直後、甥の宮川勇五郎や隊士らが夜陰に乗じて刑場から胴体を掘り起こし、密かに運び込んで埋葬したと記録されています。現在も宮川家の墓所に近藤勇の墓石が存在します。
  • 京都・東本願寺塔頭 円頓寺(愛知県岡崎市等の伝承):三条河原から首級を奪取した同志が東海道を経て埋葬したとされる首塚など、愛知県や京都近郊にも複数の首塚伝説が語り継がれています。

首級の正確な行方については決定的な物的証拠が欠けているものの、盟友たちが命がけで近藤の尊厳を回復しようとした痕跡が、全国の墓碑や首塚に色濃く刻まれています。

石川 優花

石川 優花

インテリア&ライフスタイルコーディネーター

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。