渋沢栄一の第一国立銀行は現在どこへ?みずほ銀行との真相と銀行の父の遺産
なぜ渋沢栄一は、近代日本の建設にあたって何よりもまず「銀行」を立ち上げる必要があったのでしょうか。その答えは、幕末の1867年、パリ万国博覧会へ派遣された徳川昭武の随員としてフランスへ渡った経験にあります。
当時の日本は、一部の豪商や大名が富を囲い込み、産業へ投資するシステマティックな仕組みが存在しませんでした。一方、渋沢が西欧で目撃したのは、軍人や貴族が実業家と対等に語り合い、市民のわずかな余剰資金を銀行が集め、巨大な鉄道や製鉄事業へと注ぎ込む近代資本主義のダイナミズムでした。渋沢は自著『雨夜譚』や後年の回想録のなかで、次のような実感を書き遺しています。
「一滴の水は微力であっても、集まれば大河となり、船を浮かべ、水車を回す力となる。日本を欧米列強に比肩する近代国家にするには、民間の富を広く集めて産業を興す『心臓』と、それを全身へ送り出す『血管』が絶対に必要だ」
明治維新後、大蔵省に入省した渋沢は、伊藤博文らとともに法整備に着手。1872年(明治5年)に国立銀行条例の制定を主導しました。しかし渋沢は、法を作った官僚の地位に甘んじることはありませんでした。「制度を作っても、動かす民間の実業家がいなければ絵に描いた餅に終わる」と危機感を抱き、1873年に大蔵省を辞職。民間人として自ら創業に携わったのが、第一国立銀行だったのです。