比叡山焼き討ちの真相と織田信長の動機|発掘調査で覆る通説
長らく語り継がれてきた「比叡山の山上がことごとく炎上し、数千人の遺体が折り重なった」という凄惨なイメージは、主に太田牛一が記した『信長公記』や宣教師ルイス・フロイスの記録に依拠しています。しかし、近年の考古学的な現地調査はその描写に大きな疑義を投げかけています。
大津市歴史博物館や滋賀県による比叡山山頂および坂本地区の発掘調査において、16世紀後半に相当する大規模な焼土層や炭化物は、山上の中心地である東塔・西塔・横川の主要堂塔周辺からは想定されたほど検出されませんでした。実際に壊滅的な打撃を受けた痕跡が色濃く残るのは、山麓に位置し僧兵や有力僧侶が居住していた「坂本地区の里坊群」に集中しています。
さらに、焼き討ち以前に書写された貴重な仏教経典や古文書、仏像の多くが現代まで現存している事実は、山上の文化財や中核施設が一斉に焼失したわけではない動かぬ証拠です。信長の軍勢が攻撃対象としたのは、比叡山全域というよりも「浅井・朝倉軍の軍事拠点と化していた坂本の防衛拠点や前線基地」であった可能性が極めて高くなっています。