殺しの柳川」柳川次郎はなぜ電撃解散したのか?晩年の素顔と死因の真相
柳川組の名を全国区に轟かせた決定的な転機は、三代目山口組組長・田岡一雄との出会いでした。神戸港の港湾荷役を押さえ、全国展開を目論んでいた田岡一雄は、柳川次郎の揺るぎない胆力と組織の突破力に惚れ込み、自らの直盃を下ろして直参へと抜擢します。この盃事によって、柳川組は山口組の「斬り込み隊長」「尖兵」として全国侵攻の最前線に配置されることとなりました。
巷間伝わる数々の柳川次郎の武勇伝のなかでも、裏社会に戦慄を走らせたのが中京・北陸・近畿各地で展開された過激な抗争劇です。なかでも名古屋進出を巡る「鬼頭組」との抗争では、圧倒的多数の敵陣に対し、わずか数名の柳川組員が日本刀を手に正面から突入。敵対組織の事務所を白昼堂々粉砕するという、警察関係者すら言葉を失う戦術を指揮しました。
裏社会において「殺しの柳川」の由来となったのは、単に人を殺傷した数ではなく、標的を定めたら退路を断って一撃で仕留める冷徹な戦法と、死を微塵も恐れない異様な組織的結束力にありました。柳川組員たちは「親分のためなら命を捨てるのは当然」とする独自の死生観を叩き込まれており、その狂気じみた忠誠心が他組織を心理的に圧倒したのです。田岡一雄もまた、自著や回想録において柳川次郎の果敢な行動力と誠実な人柄に最大級の信頼を寄せていた事実が裏付けられています。