沖縄戦のガマで何が起きたのか|チビチリガマとシムクガマの真相
沖縄戦が南部へと移るにつれ、ガマを巡る状況はさらに悲惨さを極めました。軍と住民の利害が激しく衝突し、人道が完全に失われていった経緯が各地の壕に残されています。
糸数アブチラガマ(南城市):陸軍病院壕の実態と過酷な医療現場
全長約270メートルに及ぶ糸数アブチラガマは、南風原陸軍病院の分室として使用されました。脳症患者や重傷兵が収容され、麻酔なしの手術や手足の切断が日常的に行われた場所です。学徒隊や看護婦たちが暗闇のなか泥水に足を取られながら過酷な看護にあたりました。現在も一般公開が行われており、ガイドの案内のもとでヘルメットと懐中電灯を着用して入壕する平和学習の場となっています。
ひめゆり学徒隊とガマ:伊原第三外科壕の悲劇
ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)が動員された壕群の中でも、糸満市伊原の「伊原第三外科壕」は解散命令直後の1945年6月19日、米軍のガス弾(黄燐弾)攻撃を受けました。壕内にいた教師・生徒・兵士ら96名のうち、87名が一瞬にして命を落としました。「ひめゆりの塔」はこの壕の上に建立されており、学徒たちの無念を今に伝えています。
轟の壕(糸満市):追い出しと軍民混在の凄惨な経緯
糸満市伊原にある轟の壕(沖縄戦の経緯)は、県知事や警察部長をはじめとする沖縄県庁の幹部や多くの住民が避難していた巨大なガマです。しかし、日本軍の部隊が乱入すると、住民は銃口を突きつけられて壕の外の砲火の中へ追い出されました。暗闇の中で泣き叫ぶ子どもへの加害やスパイ容疑による住民虐殺など、軍隊が住民を守らないどころか犠牲にした実態が数多くの体験談として証言されています。