力道山とは何者だったのか?空手チョップ伝説と死因の真相を追う
力道山を語る上で避けて通れないのが、その出自と大相撲時代の軌跡です。力道山の本名と出自は長年タブー視されてきましたが、朝鮮半島(平安南道大同郡)出身であり、幼名は金信洛(キム・シンラク)でした。1930年代後半、才能を見出されて来日し、長崎県大村市の大農家・百田家の養子となって戸籍名「百田光浩」を名乗ることになります。
大相撲の世界に飛び込んだ力道山は、名門・二所ノ関部屋に入門。卓越した運動神経と不屈の闘志でメキメキと頭角を現し、1940年5月場所の初土俵からわずか数年で幕内へ昇進しました。最高位は東関脇まで登り詰め、得意の突っ張りや激しい立ち合いで将来の大関・横綱候補と嘱望されます。
ところが、1950年秋場所の前、突如として自ら髷(まげ)を切り落とし、相撲界を電撃引退します。当時の相撲界に根強く残っていた門閥制度や出自にまつわる見えない壁、親方株の取得を巡る金銭トラブルが引き金になったとされています。角界を追われるように去った力道山は、失意の底で建設会社の現場監督などを務めながら再起の機会をうかがっていました。
転機が訪れたのは1951年秋、日系二世レスラーのハロルド坂田との出会いでした。GHQ占領下の横浜でアメリカン・プロレスの迫力に直感的な可能性を見出した力道山は、単身ハワイへ渡航。日系レスラーの重鎮・沖識名の元で過酷なレスリング修行に励み、大相撲仕込みの強靭な下半身と打撃センスを融合させた独自のスタイルを磨き上げていきました。