京都嵯峨野・広沢の池の全貌|観月の歴史からロケ地・鯉揚げまで徹底検証
広沢の池の起源は、平安時代中期の永祚元年(989年)に遡ります。宇多天皇の孫にあたる寛朝僧正(かんちょうそうじょう)が、この地に巨大な寺院「遍照寺(へんじょうじ)」を建立した際、庭園の池として開削・整備したのが始まりと伝えられています。かつての遍照寺は広大な敷地に多くの堂塔が立ち並び、貴族たちが舟を浮かべて管絃の遊びや観月を楽しんだ華麗な文化の中心地でした。
伏見天皇や西行法師をはじめ、多くの歌人が広沢の池の月を和歌に詠み残しており、「宿しもつ 月の光を かこちてや 影さへ見えぬ 広沢の池」など、平安文学において月と水面が織りなす美の代名詞として定着しました。日本を代表する名月観賞の地として名高く、水面に映る「池中の月」を愛でる風流な文化は、現代の日本三名月 観月の伝承へと受け継がれています。
池の東南畔に佇むのが、寛朝僧正ゆかりの児神社(ちごじんじゃ)です。この神社には、遍照寺の建立と寛朝僧正の入滅にまつわる切ない伝承が残されています。寛朝僧正が亡くなった際、師を深く慕っていた侍童の千代鶴丸が悲嘆に暮れ、広沢の池に身を投げたという悲話に基づき、その御霊を慰めるために祀られたのが始まりとされています。現在では子どもの無事成長や学業成就の信仰を集め、池を見守る守護神として地域住民の手によって丁重に守り継がれています。
応仁の乱などの戦乱を経て遍照寺の大伽藍は焼失し、現在は池から少し離れた場所にひっそりと再建されていますが、広沢の池の水面には今なお千年前の貴族たちが愛した静謐な空気がそのまま漂っています。