戦国時代の日本地図はどう激変した?勢力図の変遷と領地拡大の真相
地方の大名たちが地域覇権を争う中、日本地図の中央部を劇的なスピードで塗り替えたのが織田信長です。信長が登場する以前、尾張一国の守護代の一族に過ぎなかった織田弾正忠家は、尾張国内すら統一できていない小勢力でした。
信長の領地拡大は、以下の決定的なステップを経て加速しました。
1560年、「桶狭間の戦い」で上洛を狙う今川義元を急襲して討ち取り、東海道のパワーバランスを激変させます。その後、三河の徳川家康と同盟を結んで東の守りを固めると、1567年に美濃の斎藤氏を滅ぼして岐阜城を拠点としました。翌1568年には足利義昭を奉じて上洛を果たし、山城・近江・摂津など畿内の要衝を一気に支配下に収めます。
その後、信長包囲網(浅井・朝倉、武田、三好、本願寺、延暦寺など)との死闘を制した信長は、近江に安土城を築城。家臣団を各方面の軍団長として配置し、北陸方面へ柴田勝家、中国方面へ羽柴秀吉(豊臣秀吉)、関東方面へ滝川一益、四国方面へ織田信孝・丹羽長秀を派遣しました。1582年の甲州征伐で武田氏を滅ぼした時点で、織田家の勢力圏は本州中央部の20カ国以上に達し、日本地図の半分近くを赤く染め上げる圧倒的な領地規模を誇るに至りました。