賢帝を倒しパクス・ロマーナを砕いた「アントニヌスの疫病」の真相

賢帝を倒しパクス・ロマーナを砕いた「アントニヌスの疫病」の真相の要点を丁寧に掘り下げてご紹介します。

アントニヌスの疫病は、最高権力者たちの運命をも容赦なく狂わせました。パルティア遠征を指揮した共同皇帝ルキウス・ウェルスは西暦169年、ドナウ戦線からの帰途、アルティヌム近郊で急病を発症し38歳の若さで命を落とします。公式記録では脳卒中などの説も囁かれましたが、疫病による急死であった可能性が極めて高いと見られています。

一人残された哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、疫病の猛威と北方蛮族(マルコマンニ族・クアディ族)の侵略という二重の国難に直面しました。兵力が激減する中、剣闘士や奴隷、果ては盗賊までを兵士としてかき集め、自ら前線に立って防衛戦を指揮し続けました。

陣中で書き留められた『自省録』には、死の恐怖や絶望に抗い、理性を保とうとする孤高の苦悩が刻まれています。しかし、過酷な軍務と心労を重ねたマルクス・アウレリウス自身もまた、西暦180年にウィーン(古名ヴィンドボナ)の軍営で病没。彼を最後に、ローマの栄光を象徴した「五賢帝時代」は完全に幕を閉じることとなりました。

田中 結衣

田中 結衣

デジタルマーケティングコンサルタント

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。