東久邇宮稔彦王はなぜ54日で退陣?家系図・子孫の現在と皇籍離脱の真相

東久邇宮稔彦王はなぜ54日で退陣?家系図・子孫の現在と皇籍離脱の真相について知っておくべき 理由を厳選して解説いたします。

東久邇宮稔彦王という人物の真の特異性は、首相退陣後の後半生にこそあります。1887年(明治20年)に久邇宮朝彦親王の第9子として生まれ、皇族軍人として陸軍大将にまで上り詰めたエリートでありながら、その気質は極めて型破りで自由奔放でした。

1920年から約7年間にわたるフランス留学では、陸軍大学校での学習そっちのけでパリの芸術・文化に心酔。印象派の巨匠クロード・モネと親交を結び、自動車の運転や夜のサロン通いに興じるなどボヘミアン的な生活を満喫しました。宮内省や陸軍から度重なる帰国命令が出されても「自分はまだ学ぶべきものがある」と拒否し続け、明治天皇の皇女である妻・聡子内親王を日本に残したまま帰国を遅らせたエピソードは、当時の宮中を揺るがすスキャンダルとして知られています。

1947年の皇籍離脱と財産税90%による転落

1947年(昭和22年)10月、GHQの強い意向により、直宮家(秩父宮・高松宮・三笠宮)を除く11宮家51名の皇族が臣籍降下を余儀なくされました。これに伴い東久邇宮家も「東久邇宮の皇籍離脱」を迎え、稔彦王は一民間人「東久邇稔彦」となります。

皇籍離脱と同時に彼らを襲ったのが、最高税率90%に達する過酷な「財産税」でした。皇族としての歳費支給を断たれ、広大な邸宅や資産の大半を物納・接収された稔彦は、一転して日々の生活費にも事欠く経済的窮地に追い込まれます。

闇市の露店商から「ひがしくに教」開祖への転身

没落した旧皇族の多くがプライドに縛られて困窮する中、稔彦の行動力は常軌を逸していました。生きるために新宿の闇市へ繰り出し、露店で乾物や食料品を売り、喫茶店や錦鯉の販売など雑多なビジネスに次々と手を染めました。元首相・元皇族大将がエプロン姿で客を呼び込む姿は、当時の週刊誌や街頭で驚きをもって報じられました。

さらに1950年には、自らの精神的探求から新宗教「ひがしくに教」を開教。敗戦によって道徳心を失った日本人に精神的支柱を取り戻させようと試みますが、東京都から「元皇族の立場を利用した宗教ビジネス」と警戒されて宗教法人認証を拒否され、わずか数年で解散に追い込まれる憂き目に遭います。波瀾万丈の人生を駆け抜けた稔彦は、1990年(平成2年)に102歳で死去。日本の歴代内閣総理大臣の中で最長寿という不滅の記録を残し、その劇的な生涯を閉じました。

山田 真由

山田 真由

自動車・モビリティライター

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