岡田以蔵の写真は実在する?出回る顔写真の正体と宮部鼎蔵別人説の真相
文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」を機に尊皇攘夷派が失脚すると、土佐藩でも勤王党への大弾圧が始まります。以蔵は捕縛されて土佐へ送還され、藩庁による過酷極まる拷問を受けました。激しい責め苦の末、以蔵は勤王党が関与した暗殺事件の全容を自供。これにより武市半平太ら幹部への追及が決定的となりました。
慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、岡田以蔵は打ち首のうえ獄門(晒し首)に処されました。享年28。辞世の句として以下の歌が残されています。
「君が為 尽す心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空」
主君や武市のために命を捧げた自らの半生が、水の泡のように儚く消え去った後の無心な心境を詠んだ悲痛な句です。現在、岡田以蔵の墓所は高知県高知市薊野(あぞの)の山中に静かに佇んでいます。岡田家の先祖代々の墓域内にあり、現在も歴史愛好家による献花が絶えません。
以蔵の死後、実弟の岡田啓吉も獄死しており、直系の子孫は途絶えたとされています。しかし、岡田家の親族筋にあたる遠縁の人々によって、その墓標は160年以上の歳月を経た現在も大切に守り継がれています。