普仏戦争とは?ビスマルクの電報改ざんとナポレオン3世敗北の全真相
開戦直後から、両国の軍事組織と戦略の格差は歴然となっていました。フランス軍は個々の兵士の勇猛さや新型小銃「シャスポー銃」の射程で勝っていたものの、動員計画は混乱を極め、鉄道網を活用した兵站(ロジスティクス)の準備が致命的に立ち遅れていました。
一方のプロイセン軍は、参謀総長大モルトケが構築した精緻な動員計画に基づき、網の目のように張り巡らされた鉄道網を使って50万人近い大軍を数週間で国境地帯へ集中配備しました。さらに、圧倒的な射程と破壊力を誇るクルップ社製の後装式鋼鉄製大砲がフランス軍の拠点を次々と粉砕していきました。
決定的な激突となったのが、1870年9月1日の「スダンの戦い(セダンの戦い)」です。プロイセン軍によってスダン要塞周辺に完全に包囲されたフランス軍は、周囲の高台から浴びせられる激しい砲撃に晒され壊滅状態に陥りました。持病の胆石症による激痛に耐えながら前線に立っていたナポレオン3世は、これ以上の兵士の無駄死にを防ぐため、要塞に白旗を掲げる決断を下しました。
ナポレオン3世がプロイセン国王ヴィルヘルム1世に宛てた降伏文書には、次のような悲痛な生の声が記されていました。
「わが兄弟たる陛下、自軍の兵士たちの中で名誉の戦死を遂げることが叶わなかった余は、陛下の御手に我が剣を預けるよりほかありません」
皇帝自身が8万3000人の将兵とともに捕虜となったという速報がパリに届くと、民衆の怒りは爆発しました。9月4日、パリで無血革命が勃発して皇帝は廃位され、フランス第二帝政はあっけなく崩壊しました。代わって国防政府(フランス第三共和政)が樹立され、首都パリに籠城して徹底抗戦を続けることになります。