Jalがコンコルド導入を断念した真実と次世代超音速機の衝撃
1960年代半ば、世界の上空には「速さこそが正義」という揺るぎない信仰が渦巻いていた。英仏の共同開発によって産声を上げた超音速旅客機コンコルド。その未来的なシルエットと圧倒的な巡航速度は、既存のジェット機を一気に過去の遺物へと追いやる圧倒的な威圧感を放っていた。
この時代の熱狂の渦中にいたのが日本航空である。1965年、当時の社長であった松尾靜麿は、コンコルドの製造主体である英仏企業体に対して3機の仮注文(導入オプション)を保持する契約を締結した。イギリスのブリティッシュ・エアウェイズやフランスのエールフランスといったヨーロッパの名門航空会社と肩を並べ、極東の国際路線に音速の翼を羽ばたかせようという野心的な挑戦だった。
東京からハンブルク、さらにはパリへ。途中の給油地を経由したとしても、従来の所要時間を半分以下に短縮するルート案が本気で検討されていた。日本のビジネスマンが朝に東京を発ち、同日の昼前にロンドンで商談に臨む。そんな SF のような日常が、すぐ手の届く場所まで迫っていたのだ。