浦上天主堂の再建に隠された真相とは?被爆のマリアと歩む祈りの歴史

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信徒たちの血と汗の結晶であった旧浦上天主堂は、完成からわずか20年後の1945年8月9日午前11時2分、壊滅的な打撃を受けます。長崎に投下された原子爆弾は、天主堂から北東へわずか約500メートルの上空で炸裂。堂内にいた司祭や信徒は全員即死し、信徒組織の約7割にあたる約8,500人が命を落としました。堅牢を誇った赤レンガの巨堂も、外壁の一部を残して崩壊したのです。

戦後、長崎の街が復興へ向かうなかで持ち上がったのが、「浦上天主堂の遺構保存問題」でした。国内外の文化人や平和運動家からは、広島の原爆ドームと同様に「被爆の惨禍を後世に伝える世界的遺産として、崩壊した天主堂の側壁をそのまま保存すべきだ」という強い声が上がりました。長崎市議会も当初は遺構保存を決議し、国宝指定を目指す動きもありました。

しかし、事態は1958年に急変します。当時の長崎市長がアメリカ歴訪から帰国した後、突如として天主堂遺構の撤去・再建推進へと方針を転換しました。背後には、被爆の爪痕を生々しく残す遺構の存在を快く思わないアメリカ側の政治的思惑や、海外からの復興資金援助を巡る力学が働いたと指摘されています。

同時に、信徒たち自身にも「傷ついた廃墟のまま放置されるのではなく、一刻も早く神を讃える新たな聖堂を取り戻したい」という切実な信仰上の願いがありました。結果として1958年に遺構は解体・撤去され、翌1959年に鉄筋コンクリート造の新聖堂(現在の浦上天主堂)が再建されました。現在、破壊された旧天主堂の側壁の一部は、平和公園内に移築保存されており、かつての惨劇の規模を静かに物語っています。

渡辺 美咲

渡辺 美咲

ガジェット&アプライアンスライター

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