デヴィ夫人の母・政子さんの壮絶生涯|極貧から急死の真相と弟の悲劇
デヴィ夫人の人生において、最も過酷で痛恨の極みとなったのが1962年(昭和37年)4月の悲劇です。
1959年、19歳の七保子さんは来日中だったインドネシアの初代大統領スカルノ氏に見初められ、同国へ渡航。1962年3月に正式な婚姻を結び、大統領第3夫人「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」となりました。
しかし、当時の日本メディアは彼女を「身売り」「国家への背信」などとセンセーショナルに書き立て、激しいバッシングを浴びせました。この誹謗中傷の矛先は、東京に残された家族にも容赦なく向けられたのです。
真面目で心優しい青年だった弟の八曾男さんは、早稲田大学で仏文を学ぶ優秀な学生でしたが、周囲からの心ない視線や中傷、さらには姉の立場を利用しようとする悪質な詐欺グループの金銭トラブルに巻き込まれ、精神的に追い詰められていきました。
そして1962年4月、八曾男さんは自宅アパートでガスを充満させ、22歳という若さで自ら命を絶ってしまったのです。
この息子の非業の死は、持病を抱えながら一人で耐えていた母・政子さんの心を粉々に打ち砕きました。最愛の息子の変わり果てた姿に対面した政子さんは激しいショックを受け、持病と衰弱が一気に進行。弟の死からわずか2日後(48時間後)、入院先の病院で心臓麻痺により急死されました。
インドネシアのジャカルタにいたデヴィ夫人のもとに届いたのは、「弟が死んだ」「続いて母も息を引き取った」という相次ぐ凶報でした。政変の緊張が高まる現地の情勢もあり、すぐに日本へ帰国して最期の別れを告げることすら叶わなかった彼女の絶望と自責の念は、想像を絶するものでした。