斎藤龍興はなぜ信長に敗れたのか?波乱の最期と生存説の真相
永禄4年(1561年)、父である斎藤義龍が35歳の若さで急死したことで、まだ十代前半だった斎藤龍興は突如として美濃国の命運を背負うことになりました。祖父・斎藤道三を討ち取って美濃の実権を固めた義龍のカリスマ性に依存していた斎藤家は、この突然のトップ交代によって一気に動揺します。
龍興が直面した最大の障壁は、隣国・尾張から美濃侵攻を本格化させた織田信長の軍事圧力だけではありませんでした。国内の宿老たちとの深刻な亀裂が、内側から美濃支配を蝕んでいったのです。
その決定打となったのが、永禄7年(1564年)に起きた竹中半兵衛による城乗っ取り事件です。龍興の側近政治に不満を抱いた竹中重治(半兵衛)と舅の安藤守就が、わずか十数人の手勢で本拠地・稲葉山城を電撃的に占拠。龍興は城を脱出せざるを得ない屈辱を味わいました。半年後に城は返還されたものの、当主としての権威は失墜し、国人衆の統制力は致命的な打撃を受けました。
さらに永禄10年(1567年)、「美濃三人衆」と称された有力重臣である稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全が信長へ寝返ったことで勝敗は決します。外堀を完全に埋められた稲葉山城の戦いにおいて、龍興は城を支えきれず、美濃の地を追われることとなりました。