大水害耐えた諫早眼鏡橋の真実!長崎との違いや移設理由を徹底解説
諫早眼鏡橋の歴史は、江戸時代末期の天保10年(1839年)にまで遡ります。当時、諫早領内を流れる本明川は「暴れ川」として知られ、大雨のたびに木橋が流失して人々の生活を脅かしていました。これを見かねた諫早領主・諫早茂孫公の命を受け、不落の名橋を築く大事業が始動します。
架橋を指揮したのは、地元の名工である広瀬之助を中心とする石工たちでした。本明川の激しい水流に耐えうるよう、強固な基礎工事と緻密な石組み技術が注ぎ込まれました。完成した橋は、長さ49.25メートル、幅5.5メートル、高さ7メートルという堂々たる規模を誇る2連アーチの石橋です。川面に映る2つの半円がまるで眼鏡のように見えることから、親しみを込めて「眼鏡橋」と呼ばれるようになりました。
江戸期の土木技術の粋を集めたこの構造は、後世の専門家からも極めて高い評価を受け、1958年(昭和33年)に石橋として日本で初めて国の重要文化財に指定されました。幾重にも組み合わされた切石の接合部には狂いがなく、当時の職人たちが誇った卓越した技術力を今に伝えています。