本多忠勝の生涯無傷は本当か?死因の真相と愛槍・蜻蛉切、子孫の現在
本多忠勝を象徴する2大ギアが、天下三名槍の一角「蜻蛉切(とんぼきり)」と、異様な威圧感を放つ「鹿角脇立兜(かづのわきだてかぶと)」です。これらは単なる装飾品ではなく、極めて実戦的・心理的な計算に基づき設計された武装でした。
「蜻蛉切」は三河文珠派の刀工・藤原正真の作とされ、戦場に立てて置いた槍の刃先に止まった蜻蛉が自重で真っ二つに切れたという伝説からその名が付きました。刃長約43.7cmの笹穂型と呼ばれる鋭利な刃を持ち、圧倒的な刺突力と切断力を兼ね備えていました。
興味深いのは、忠勝が寄る年波に応じて武器をカスタマイズしていた点です。全盛期には柄の長さが二丈余(約6メートル)あった蜻蛉切ですが、晩年になると体力の衰えを自覚し、自ら柄を三尺(約90cm)ほど切り詰めて一丈三尺余(約4メートル)に改修しています。見栄や過去の栄光に囚われず、その瞬間の肉体で最も武器の威力を引き出せる長さに調整した事実からは、職人肌のプロフェッショナリズムが垣間見えます。
一方、巨大な鹿の角をあしらった「鹿角脇立黒漆塗頭形兜」と、肩から斜めに掛けた巨大な数珠のビジュアルは、敵陣に対する強烈な心理的威圧(フィジカル・プレッシャー)として機能しました。鹿の角は本物ではなく、和紙を幾重にも張り重ねて漆で固めた「張懸(はりかけ)」技法で作られており、見た目の重厚さに反して驚くほど軽量でした。長時間の合戦でも頸椎に負担をかけず、俊敏に首を振って周囲の状況を索敵できるように工夫されていたのです。
こうした計算し尽くされた武備と本人の武勇が相乗効果を生み、敵味方双方から数々の本多忠勝の最強逸話が生まれました。元亀3年(1572年)の一言坂の戦いでは、武田信玄の猛攻の前に殿(しんがり)を務め、巧みな遅滞戦術で家康の本隊を無傷で撤退させました。この鮮やかな用兵を目撃した武田軍の小杉左近が詠んだ狂歌はあまりにも有名です。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」
さらに、織田信長からも激賞を受けました。天正10年(1582年)、甲州征伐の後に家康と対面した信長は、忠勝を指して「花実兼備の勇士(武勇だけでなく人格や教養も兼ね備えた武将)」と絶賛。これが史料に刻まれた織田信長の評価です。豊臣秀吉からも「東国無双の勇士」と恐れられ、敵対する天下人たちすら屈服させるカリスマ性を誇っていました。