宮に初めて参りたるころ現代語訳|清少納言が赤面落涙した意外な真相
学校の授業でこの章段を読んだ生徒の多くが抱く最大の疑問は、「弁が立って自信家のはずの清少納言が、なぜこれほどまでに臆病風に吹かれ、泣きそうになっているのか?」という点です。大手予備校の分析や古典文学研究の第一線で指摘される背景には、単なる「初出仕の恥ずかしさ」にとどまらない、3つの決定的な理由が存在します。
第1に、当時の年齢差と「後宮の完成度」です。清少納言が出仕したのは正暦4(993)年の冬、数え年で27〜28歳前後と推測されています。平安貴族の女性としては、すでに一度結婚と離婚を経験し、子供ももうけていた「成熟した大人」でした。対する主君・中宮定子は、当時わずか17歳前後。自分より10歳も年下の少女でありながら、関白・藤原道隆の愛娘として最高峰の雅びを身にまとい、非の打ち所がない美貌と教養を備えていました。百戦錬磨のつもりで上がったはずの自分が、若き中宮の神々しいオーラに完全に圧倒されてしまったのです。
第2に、「地方(受領階級)の出」という強烈な文化的コンプレックスです。清少納言の父・清原元輔は当代一流の歌人でしたが、官位としては地方官(受領)クラスにとどまっていました。一方、宮中のサロンを彩るのは、幼少期から都の最先端トレンドを浴びて育った名門貴族の令嬢たち。自著や手記の端々に見られるように、彼女は自らの服装、立ち居振る舞い、言葉遣いが「田舎臭いと笑われるのではないか」というインポスター症候群(自己過小評価)に苛まれていました。
第3に、「あへなきまで御前許されたる」ことへのプレッシャーです。通常、新参の女房は数か月から年単位の下働きや先輩の指導を経て、ようやく主君の間近に侍ることが許されます。ところが定子は、歌人・元輔の娘としての才覚を前評判で知っていたためか、初日からあっさりと至近距離(御几帳のすぐそば)へ招き入れました。実力以上のVIP待遇を受けたことで、清少納言は「期待に応えられなかったらどうしよう」という重圧に押し潰されそうになっていたのです。