フェートン号事件の真相と教訓|幕末海防を激変させた激動の全貌

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イギリス軍艦の威圧に対し、長崎奉行の松平康英(石見守)は即座に討伐・焼き討ちを決断しました。しかし、港の防衛を担うべき佐賀藩の警備陣地「長崎警衛」を確認した奉行所は、驚愕の現実に直面します。

本来ならば1,000名の武士が駐留していなければならない陣地に、わずか几十名から100名足らずしか配備されていなかったのです。佐賀藩は極度の財政逼迫を理由に、幕府に無断で守備兵を本国に引き揚げさせていました。

「長崎の要塞化は名ばかりで、大砲は旧式、火薬すら満足にない」――オランダ商館長ドゥーフが残した回想録『日本回想録』にも、当時の奉行所の狼狽と防衛体制の脆さが赤裸々に記録されています。隣藩の大村藩や福岡藩に応援を要請したものの、軍勢が集結するまでには数日を要する状況でした。

ペリュー艦長が提示した補給の期限が迫る中、松平康英は人質の生命と長崎市街の壊滅を避けるため、やむなく要求を受け入れて水や牛豚などの食糧を提供。補給を完了したフェートン号は、応援部隊が集まる直前の8月17日、悠然と長崎港を抜錨・脱出しました。

国威を汚され、無法な侵入者をみすみす逃がす結果となった責任を取り、松平康英はその夜、奉行所宿舎にて切腹を遂げました。自らの腹を十文字にかき切る壮絶な自刃であり、幕府への遺書には「警備の不備はすべて奉行たる我が不徳」と記されていたと伝えられます。

井上 凛

井上 凛

シニアコンテンツプロデューサー

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。